富士山がもっとも遠くから見えるのは、和歌山県の妙法山とされている。では、 妙法山から見える富士山の山頂部の大きさは、いったいどの程度なのだろうか? 地球に直接巨大な定規を当てることができたなら、海とぎりぎり接しそうにな りながら、なんとか富士山と妙法山の山頂を結ぶことができるだろう。このとき、 妙法山から見て海の上に顔を出す富士山は約1/60度。2m先のシャーペンの芯程度 である。これでは、いくら理屈の上では見えるとしても、富士山を肉眼で見分け るのは難しそうな気がしてくる。
では、実際に妙法山から富士山を眺めたら富士山はどの程度の大きさになるの だろうか? 答えは約1/6度。20cm先のシャーペンの芯程度となり、条件さえ整 えば肉眼で見つけることも不可能ではないことがわかる。
この違いは、地球の大気に由来している。遠くの景色は、大気があるために本 来よりも浮き上がって、実際よりも高い位置にあるかのごとく見えている。光の 屈折による像の浮き上がりの量は、気差または大気差と呼ばれている(物理学や 天文学では「大気差」と呼びのが一般的だが、本書では測量学などで使われる「 気差」に呼称を統一しておく)。
それでは、光はなぜ大気中で屈折するのだろう? 物質には「屈折率」という 量があり、すべての物質は真空よりも大きな屈折率をもっているからである。屈 折率がもっとも小さいのは真空である。
たとえば、水と空気も屈折率が異なっている。屈折率が異なると、光は直進せ ず、その境界で曲げられる。ガラスのコップのなかの棒が曲がって見えたり、お 風呂のなかのものが太く見えたり細く見えたり、といった現象は、空気と水の屈 折率の違いによって生じる現象である。
物質が異なればたいてい屈折率が異なるから、その境界で光は曲げられる。で は同じ物質の場合はどうだろうか? 大気が完全に均一であれば、屈折率は一定 の筈である。しかし、標高の高いところでは空気が「薄い」。山に登ると気圧と 気温が下がる。標高がさらに高くなれば空気はなくなってしまう。 このように、大気の様子は高度によって異なっている。地表に近い大気ほど密 度が大きく、大きい屈折率をもっている。光は屈折率の小さいものの方から屈折 率の大きいものの方へ曲げらるので、光は大気中で少しずつ下に曲げられながら 進むことになる。大気によって光が曲げられる量はごくわずかだが、何十キロも 何百キロも進むうちにはバカにできないほどになる。地球は丸いから、遠くのも のは地球の丸みにしたがって沈み込むので、一定の距離以上離れたものは見えな くなるはずである。しかし、大気による光の屈折の効果があるために、光の方も 地球の丸みをある程度追いかけて曲がってくれる。したがって、大気による光の 屈折の効果によって「遠くのものは少しだけ浮き上がって見える」ことになる。展望をシミュレートするソフトでは、「気差」の効果を計算に取り入れている。 一般的には地球を実際よりも少しだけ大きくする方法が再現性がよい。この場合 は、地球の半径を実際の大きさの1.15倍にして計算する。
最近、「ふだん見えない筈の遠くの山が、異常に浮き上がってよく見えた」と いう蜃気楼現象が報告されて話題を呼んだ(別項)。気差は夏と冬、朝と夕方でも 多少は変化するし、気象条件によってはかなり大きく変化することがある。上で 述べたように、気差は大気の温度や気圧の微妙な変化によって変わるからである。 そのために、遠くの山の見え方が毎日微妙に変わることは実は不思議なことでは ない。
気差を正確に評価することはたいへんに難しいことのようである。山を眺める のにそんな小難しい話は必要ないよ! という声も聞こえてきそうだが、何年か に一度くらいなら「富士山が見えるかも知れない...」という場所があるといっ たら、少しは夢を感じてくれるだろうか。